昭和45年03月20日 春季総会



  こちらにロ─マ法王パウロ六世の三宅先生に対する、正月の年賀状があのメッセージが来て居ります。今日はそれを読んで頂きます。皆さん是れを聞いてどう感じられるだろう。例えば此の前のには、先生があちらに行かれてこの、ロ─マ法王パウロ六世に会われました。単独面接に行かれたんですね。そして金光教の信心を語られたら、全面的に共鳴しなかったと云って、大変憤慨した意味合いの講演を帰って来てなさったんです。三宅先生の仰った事を全面的に共鳴しなかった。ロ─マ法王のメッセ─ジから、私共がそれをどう受けるか。短いですから読んで下さい。「それでは読ませて頂きます。」
 「ぜんこんの世界を支配している色々な考え方を、根本から改めなくてはらないと云う考えは、少なくとも部分的には誤りを犯している。と言うのは、その考えは全体を考えていない処があり、なんらかの考えに縛れており、又利己的な処がある。此処で本質的に正しく真実を考え、真実な考え方は唯一つある。
 それは全ての人をけじめなく愛すると云う事である。この考え方は極めて単純であり、同時に極めて難しい。此の事自体は極めて簡単である。それは人間は愛の為に造られて居るからである。そして極めて難しい訳は、それはどうすれば愛する事が出来るのであろうか。どうすれば愛を普遍的な原理にまで、高める事が出来るのだろうかと云う事である。絶える事なき競争を、利己主義と憎しみによって。
 こんなに犯されている近代の近代人の上に、どうすれば愛が入り込む事が出来るのであろうか。だれが自分の心に愛があると言えるのであろうか。今日では全人類への愛が問題なのである。此処で言う人類とは、是れからの人類、明日の人類、進歩の時代の人類が、対象なのである。この人類の姿が一致しない限り本物とは言い難い。そしてこうした一致は、力によるものでなく、自分勝手な他人を食い物にするエゴイズムでもなく、互いに兄弟として、愛し合う心がもたらす一致でなくてはならない。
 平和と云う偉大な理想に付いて、考えて行く人々は、今日ただちに新しい考えを身に付ける事に迫られている。平和は人々の心から始まります。私達は先ず平和とは何であるかを知り、これを認め求め、そして愛さなくては成りません。そうすれば、私達は是れを実現出来る様に成ります。人類の道義を改革し、その道義の上に哲学の上に、社会学の上に、そして政治の上に、平和を刻み付ける事が出来る様に成るのである。確認しようではありませんか。未来の此の微動は、偉大なものである。勇気をもって第一歩を踏み出しましょう。平和の為に、私達自身をまず教育して行きましょう。」
  只今お聞き取り頂きました、ロ─マ法王の三宅先生に対するメッセ─ジと云うものが、どう云う内容を持っておるのか、皆さんお聞き取り頂けたと思うんです。「どうすれば、愛を普遍的な原理にまで高める事が出来るのであろうかと、どうすれば愛する事が出来るのであろうかと。」この様な事がもうどれ程、繰り返し是れはキリスト教が始まって此の方、言い続けられて来た事か解かりません。どうすれば、皆んなが愛されるか、ね。それを「どうすれば、普遍的な原理にまで高める事が出来るであろうか」と。
 まあ、キリスト教のもう理想で御座いましょう。皆さん、是れをお聞きに成って、どうですか。何かお感じに成る事は無かったでしょうか。金光教のいわゆる、泉尾教会の三宅先生は、願って願って願い抜けと、世界の平和を願えと。世界総人類の幸福を願えと。ね。この様なたぎる様な思いで、私は願って居るんだと、金光教という宗教はそう云う宗教なんだと。どうですか、貴方たの処のみ教えは。私の言う事は本当でしょうがと、言わんばかりにお話しに成って居られるです。三宅先生は。
 ところろが、其れをですね。其れを共鳴しなかったんです。此の人は。そして今度は自分が言うて来ておられる事はですね。願って願ってと云う事よりもね。どうすればその、世界人類がですね。いわゆる愛し合えれる、おかげが受けられるかと云う事を言うております。是れはまあお道の信心で「和賀心」を云う、仏教で「慈悲」を説く、キリスト教で「愛」を説いて居るのですから。
 やはり、それが普遍的な原理にまで高めると云う事を言って居ります事は、是れは今更今年と云う、大変な年柄に当たってこう云う事を言い出したのじゃあない。もう此の事をいわばキリスト教では、言い続けて来ておる訳で、言い続けて来て居るけれども、どれだけそれが、実現して行っておるか。してみると是はですね。是れはね。ただ空論にしか過ぎないと云う事なんです。
 言うばっかり素晴らしい、美しい事なんだけれど、是れは言うばっかりなんだ。いわゆる、「なんじの敵を愛せよ。」とこうキリストが言うて居られる事が、果たして汝じの敵を愛し得れるか人間が。と言うてなら三宅先生の仰る、願って願って、願い抜け。例えば、世界中の人類が幸せに成って行く事を、願って行けと。ね。其れを例えばロ─マ法王は、それが共鳴しなかったで有ろう様に是れは私共も是は頂けない。
 素晴らしい事ですねそれは。それこそ夢の様な事ですねと。けれどもそれはただ単に夢にしか過ぎません。実現出来ない事なんです是れは。今朝のご理解を頂かれた方は、良くご承知で御座いましょうが、教祖さまが「天の事は言うな。」と仰る。「天の事は、宗ただかね、宗ただに任せておけ。わしは地の事を言う。」と仰る。そして天と地はどちらが、偉大な働きをするか。
 それは勿論男と女が居らなければ、子供が出来ない様に、天が無からなければ、地が無からなければ成らないけれども、例え父親が先に死んでも、子供は育つと仰る。ね。天と云うものは、もう与えて与えてやまないもの。恵んで恵んで、恵みやまないもの。だからほおっておいても、世界中の氏子におかげはやってあると云うので有るから。世界中のおかげはやって有ると云うのであるから。
 「天の事は言うな。天の事はどんな素晴らしい事であっても空論ぞ。」仰る。私はね今日のご理解のご神訓の第一節の処に御座いますですね「今月今日で頼めい。おかげは和賀心にあり」というご神訓。是は天地書付じゃあないですよ。今日は其処の所のご神訓を頂いてですね。一遍「今月今日で一心に頼めい」と云う事は、私共はね私共は一心に頼ましておかなければ、居られない事ばっかりなのだと云う事なんです実は。
 痛い事があれば痛いと。痒い事があれば痒いと、願わなければ居れんのが、私なのだと。と云うてすぐに掻いてあげる訳にはいけんのぞと。おかげは和賀心にありと、神さまは答えて居られる訳です。そうでしょう。一心に頼めと、一心に頼むとは、私ども氏子が一生懸命に頼む事なんです。だから一心に頼んで、そのおかげはね。和賀心にあるのだぞと。だから、是れは、神さまの、それに対する御返事なのですよ。
 金光教はとにかく御利益を頂く道だと今朝から説かれました。金光教の信心はご利益を頂く道だと。だからご利益を頂く信心ではない。ご利益をね頂く道を教えるのだと言うのです。だからその道を行じる。その道は何処に有るかと云うと、焦点が和賀心に成る道を教えるのだと云う事。ですから泉尾の先生がですね。願って願って願ってご利益を頂くと云う事だけでは、ロ─マ法王がそれは本当の事じゃあないと云うふうに言うた訳です。所が、三宅先生がどうでしょう。
 私の生き方である、私が言って居る様にですね。金光教ではそのおかげの頂けれる道を説くのだと。その道の焦点は、和賀心にあるのだと貴方が言われる、愛の心にも通じる事だろう。と私は説いたらね。まあこの人は解かったのじゃあなかろうかと私は思う。ですからね。今日の御理解からいうと「天のことは言うな。」と、教祖は仰ったんですよ。「天に縋れよ。地に任せよ。」と。
 云う御教えが居りますけれどもです、なら又の教祖のみ教えには「天のことは言うな。」黒墨ただ宗さんですかね。当時お侍であって、そう云う一つの学問を大成なさった、そしてそれを一つの。現在でも宗教になった。その人が天の理を非常に説かれたらしいですね。同じ時代だったんですよ。だから教祖はその事を、まあ、ちっと皮肉くった様に言うて居られます。ね、
 もう「天のことは、ただむ宗まかせとけ。」と言うて居られる。そして「この方は地の事を説くのじゃ。」と仰る。ね。皆さんだから地の事をね。そして何故天の事は説かんで良いか。天の事は天はね。言わんでも頼まんでも願わんでも、限りなく恵んで居ると云う事なんですよ。だから此の事をね。学問だけで例えばお話をすると云う事は、もうただ空論にしか過ぎないんだ。
 世界中の氏子におかげはやってあると、もう是れだけなんだ。もう限りなく恵みに、恵み与えて有るのだ。だからその恵んで有るそれをどう受け止める心を、私は説くのだと教祖は言うて居られる訳なんです。だから是れが何故こう云う事が、何百年何千年、キリスト教が始まって此の方、この事を説いて来た事に違いはないです。ね。それをですね。人間のね。一つのお互いに愛し合わなければいけないと云う事をです。
 私が世界中の人間にです。和賀心が無からなければ、人間は幸せには成れないのだと云う事を、世界中の人類に説いて明かさせて頂く時代が、必ず来るだろうと云う様にです。キリスト教ではこの愛を、世界中の人間に解からせなければならない。其れはね神の愛を説くのです。ですから是は天の愛ですから、是れはもう素晴らしい事なんだけれども、神様はお出来に成るかも知れんけれども、私共には出来ないと云う事なんです。
 だから是はもう空論なんです。だから実に空ぞらしいものです。皆さん是れを聞きながらそう云うふうに思われなかったでしょうか。是れを聞きながら「ああ、素晴らしいなあ、キリスト教も大将にもなると、あげな事が言える。」と思われた様な方はないでしょうか。今朝のご理解を頂だいとったら、それは空論だと直ぐ解かるです。ですから私共はね。天の事は言わん天は恵んで恵んで、恵みやまれないもので有るから、私共は地の事を頂いて、ね。所謂地の心を心としての信心をさせて頂くと云う事なんです。
 先程熊本の山田先生が、此処でお話に成って居られました。あちらにお許しを頂いて、布教させて頂く様に成ったら、もうどんどん人が助かる。本当に親先生の祈りの元に、こう云うふうにおかげを頂くとこう思うて居ったが、今年に成ったらすぱぁっと、そのお参りが少のうなって、現在では五、六所帯の者が参って来るのみだ、とこう言うて居られる。そして初めて此処に解からせられた事。ね。
 それはどう云う事であるかと云うとね。是れからこそ本当の合楽の信心を、よもぎの地に布教しなければならないと云う事を言うて居られます。どうでしょう。ね。布教当時の事。是れは久留米の光橋先生の所でもそうでしたですね。当時はもう押すな押すなと云う程、人が集まったんです。ね。それで親先生のおかげで、親先生のおかげで、と思いよるけれども、それがもし続いたらどうでしょう。
 口では親先生のおかげでと、それは言いますけれどです。ね。矢張り私に信心の修行が出来て居ったから、こんなに段々人が集まって来る様に成ったに、終わる様な結果に成りはしないかと思うです。山田先生は今、其処に行き詰まって居られる、其処にいわば気付いて居られるのだと私は思うです。ね。其処で成る程今まで親先生のお許しを頂いて、あちらに布教させて頂いたら、人が助かって来た、此の調子で行きゃあ本当に有り難い事に成って来るがと思う矢先にです。
 今年に入って次々と不詳な事が起きたり、または今まで熱心に参って居った人が、お参りをしなく成ったりしてきたと。其処でです。ね。是れからは、是からこそ、本当の信心、いわば是からこそ、合楽の信心をよもぎの地に布教しなければならないと言うて居られます。私はね。此処の処を皆さんがね。秋永先生が言われる様に、ね、私は本当な事をです。是れからは、一つ本当な事を解からせてもらい、本当な事を行じて、本当なおかげを頂いて行けれる道に、進ませて頂かなければならんと云うふうに思うのです。
 其の為には例えば山田先生は、是れから本気で合楽の信心を勉強なさらなければ成りません。今そして合楽で勉強すると云うなら、口を開ければ何を言われるかと云うとです。和賀心時代に突入したんだと、ね。しかもこの和賀心はです。和賀心と云う説明をするならばです。いわゆるそれを「和賀心学」と、こう申して居ります。「和賀心学」をもってです。私共がそれを聞かせたならば、信心がある者もない者も他宗派の人もです。成る程と合点が行くだろうと私は確信して居ります。
 「一生懸命願いよれば、おかげになるばの。」と言うのじゃあないって。そんなら例えば本当にそれは美しくでは有るけれどもです。人を愛すると云う事。いわゆる汝の敵を愛する。そげん人間がならなければ此の世の平和は無いと云う様な事は、それは何万年おそらく言い続けたってそれは、実現しないと私は思うです。そうでしょうが。ね。けれども私自身がですね。和賀心に成る事。
 いわゆる大地の心を解からせて頂いて、大地の心を心としての、信心が出来る様に成らせて頂くと其処に私が長年、例えば言い続けて来た和賀心。だから今まで言い続けて来た事の全てがね。「和賀心学」と私は思うのです。それを場合には成り行きを大切にしなければと。ね。と云うふうにまあ申して参りました。そして愈々解からせられる事なのです。山田先生のお話の中からも、それを感じるんですけれども。
 先程、嘉朗さんが来て居りましたが。自分のお店から自分の家に帰る道すがら、百円のお初穂に事欠くと云っ様うな時代にもう私は楽しみだった。自分のお店から自分の家に帰る間に「我無力」と言うて、手を挙げて大きな声で叫んで行った。我れ無力だと。だからこの私が、我れ無力だと言う事が解かった事が天に聞えたならば、おかげが頂けると云う事である。私はそこを聞かせて頂きよったら、なしかしらん感動した。ね。
 われ無力と云う事が解かった、解った処からですね。私は山田先生の是れからの布教が成されなきゃいかんのだと。そして是れから私の信心に入って来る物はです。いわゆる和賀心にならせて頂く為の学問が、是れから必要なのだと。それは大変引いたり、足したりと言った様なの数学的な、難しい事では無くて話を聞けば、無学な者でも解かる程しの、和賀心学なのである。
 そしてこう言う修行をさせて頂けば、其処に和賀心が頂けれると云う、例えばもう実際、問題に直面した時にです。頂く味噌の教えの一つ一つが、和賀心を作って行くおかげの元に成るのだと。私しが本当に今、今年に成って言うて居る事がですね。本当に皆さんが、素晴らしいと云う事に、共鳴される。私は先程お昼のお昼食の時間に、寄り頼り其処で皆さんが、お弁当を頂いて居られる。お庭の持って出られる方もある。
 其処でたむろしながら頂かれる。そしてお寿司を作って来きて居る人もあれば、おにぎりを作って来て居る人もある。「さあ是れ一つ頂いてご覧なさい。」とか言うてその、まあ頂きあってですね。私は本当に総会と云うのはね。それが必要だと思うんです。ね。だからもうね。そりゃああのう自分一人でお弁当食る様な事をせずに、お互いグル─プ、グル─プ集まって、もう一つの大きな家庭の様に有る事がです、楽しみに私は総会が開かれなければ駄目だと思うです。
 いわゆる合楽全体がです、大きな一つの大所帯としてです。いわばお茶を頂ながら、ご飯を頂ながら、話し合う事は何かと云うとです。和賀心と云う事の有り難さ、私共が合楽に御縁を頂いて居る事の有り難さを話し合い、語り合えると云う事。そう云う雰囲気がです。私は先ず第一だと。だから合楽の者全てがです。私の言うて居る事に「そうだ。」と。親先生が言うて居られる事は、何処にも通用するんだと云う事をです。
 先ず皆さんの家庭の中にです。身を持って行じて応じて下さらなければならないと云う事です。今朝から私が申しました様に。皆さんがね。私が和賀心和賀心と。夕べの合楽会にも私が申しました様に、合楽の皆さん自体がね。一つおかげを頂いて下さらなければ、私の言うて居る事が空言に成るのです。空論に成るのです。今年という年柄はね。どうでも、合楽でおかげを頂いて居る十年、十五年、二十年と信心を続けて居る人達がです。まあ、おかげの頂けれる一線上に出らなければ成らない時にあるのです。
 其れは是れだけ努力したからと言った様なものでは無くてですね。何故そうかと言うとですね。私が和賀心と云う事を、皆さんが共鳴して下さる事によって、その事に姿勢が向けられる事に依ってです。おかげが出て来ると云う事は、そのおかげをひっ提げて、私は世界の市場に出れるんだ言う事を言って居るのです。私がどの様に例えばそんなら、例えばね。キリスト教のこのロ─マ法王の言って居られる様な素晴らしい事。
 又は泉尾の先生が言って居られる素晴らしい事、けれどもこれは素晴らしいけれども、こう言うものは、ほんなもんじゃなか、と、私は言って居るんです。願って、願って、おかげを頂くと言う、それは、ご利益を頂くと云う事だったら、それはですね。例えば本当に、まあ今、大宗教を、自負しておる、仏教とか、キリスト教は、そう言うご利益を頂くだけの信心は、ご利益の信心はほんなもんじゃあないと言うんです。
 と云うて私に言わせると、ご利益のない信心はほんなもんじゃあないと言ってるんです。けれどもそこにはね。今日今朝から頂きます様に「一心のたのめい。」と。私共が例えば願い事を持って居る。それ、頼むと云うのは、私どもの方だ。だから「おかげは和賀心に、あるぞ。」と、仰るのは、神様のお答えなんです。だからその和賀心と云うものを頂くこ事よっておかげを頂けれる道を教えて頂くのが、金光大神なんだ。
 ですから私が言って居るその事はね。何処の市場のだって通用すると、私は自信を持つけれども、それにもう一つです。ね。「合楽でご神縁を頂いた信心の稽古をして居る人を見て下さい。和賀心に精進して居る人が此の様におかげを受けて居ると云う、実証をして行かなければならないと云う事です。皆さんが実証者に成って下さらねばならない年柄なんだと、此の七十年という年柄は。
 少なく共なら此処に、合楽なら合楽に五十人なら五十人の人だけ位はです。もうおかげの一線上にでら成ければ成らないと云う事です。いうなら二十年間細々とね。細うても長く続く。それこそ日々おかげの間違いなさを、実感させて頂ながら通らせて頂く道には、草一本はやさん程しのおかげを頂いてみえられた、今日まで。そして今日に至った。そして私が和賀心時代を叫ぶ訳。其処にはね。神様が今年はおかげを下さる年柄なんだ。また、下さらなければね。私の言い分が通らないのだ。
 其処でです。なら私共が、今おかげを頂いて来たと言う、山田先生の今までのおかげを頂いて来たのは、一遍一掃してです。「私しだん、そればってん、こげなふうでおかげ頂いた。」と言う様な信心は一掃してです。 ね。いわば私の。皆んなが共鳴者に成って下さってです。合楽と云う家族が一丸に成ってです。どげん考えたっちゃ和賀心を求めて行く以外には無いなあと。
 嘉朗さんが言ってました。自分の和賀心を頂いて居る、その度合い度合いに応じてのおかげを頂くと云うのです。こげな修行しよるけんこげなおかげを頂きよると言った様なもんじゃあ、もう合楽じゃあ通用しないて。それは大きな見地に立ってですよ。ね。私が本当に、世界の市場に和賀心時代を、ね、出しました時にです。ね。はあそりゃあ成る程これは、キリスト教でも言わなかったこ事三宅先生も言わなかった事だと。
 金光教とは改めて見直したと言われるだけではなしにです。それが此の様におかげを受けるんだと云うですね。おかげが伴わない宗教はそりゃあもう宗教の様であって、類似宗教なんです。宗教に似て居るだけなんですと言うてご利益だけを頂くならば、是れも私は類似宗教だとおかげの頂だけれる道を教えて下さる。ご利益の頂けれる道を教えて下さる。其処の焦点は和賀心と教祖様がはっきりお示し下さって有るですから、ね、
 此の事をですね。私共が本気で其の事に共鳴してです。其の事に精進させて頂いてです。和賀心の頂けれる、いわば和賀心のいわば、その丈岳に応じてです。おかげを頂いて行くと云う事になれば、その和賀心をいよいよ広いものに、深いものに大きなものに、育てて行く事の楽しみも、またあろうとこう言う。それをね。合楽全体に求められておる、私は今日だと思うのです。
 一ヶ月後に控えておる大祭。成る程今までは是れで済んだ様な気がしますけれどね。今年はそれじゃあいかん。何故って神様が此の様に言うて下さって有るのですから。この春の例えば四月の二十日の御大祭には、合楽全体の者がです。和賀心に依らなければおかげを受けられん、和賀心に依らなければ人間の幸福は有り得ないだと云う実証をですね。是れだけでも良いからさせて頂いて、其の事が解からせて頂いたとしてのです。
 四月の二十日の御大祭は、それをもっての、神様へのお礼としなければならんと、私は思うのです。ただ四月の大祭を、ただ表行で誤魔化すてんなんてんと云う事は、それではもういけん、そういう小さい信心じゃあいけん。もう一月の間何やらやっちゃあ間に合わんけん、表行なっとんしょうなんて、そげな事じゃあ出けん。ね。私の言うておる其処にみんな共鳴してです。ね。そして家族で話し合う時にもです。
 御飯を頂く時にもです。今日善導寺の原さんが話して居られましたがです。夕べは本当におかげを頂いて御飯を頂きながら、和賀心時代のお話をさせて頂いたら、皆が「そうですな。そうですな。」と言う事だった。と言う事なんですよ。そう云う家族の集まりがです。ね。私は今度の四月の大祭の、もう一番のお供えとしてですね。その、和賀心をもっての、御大祭でなければならない。
 そう云う事が解からせて頂いてですよ。そう云う事をもって合楽全体が、愈々世のお役に立たせて頂くと云う事なんです。世界の市場に出すなんて、大きなこと。それは、何時の事やら解かりません。けれどもね。あながちそうばっかりは言うて居られんですよ。「合楽が、合楽が。」と言うて白眼視されて居ったのが、此の頃はもう合楽でなからなならんごと言うじゃあないですか。足元の者は言いませんよ。
 ほおらまあだ妙うなふうです。此の頃先生方がね二十何人集まったばってん、久留米地区の先生達はお初穂包まんと此処に来たです1日。其処で飲んだり食うたりし帰ったですよ。とてもそりゃあほんなこて合楽を馬鹿にしとるとも、この上もなかと私は思いましたよ。そして此処ではうだごとばっかり言うて居るとです。だからその様に私が解かってないのですよ。もう言うなら合楽を踏みつけ居るですよ。
 けれどもどうですか。ね。その合楽の信心は、ここの地区以外の人たちが、認めて来たじゃあないですか。本部が認めて来たじゃあないですか。そして本部にこうやって入って行ったからと云うてですね。またそれで本部が全面的にですね。私の言い分をそうだと言わないかも解かりません。そんなら私は其の時こそ世界の市場に出すべきだと、私は思うんです。そして金光教の自体が解からんならですね。
 世界の宗教いやもう宗教じゃあない、世界の総人類にね。呼びかけられる様なですね。私は時代を期待いたします。そうして始めて足元のもんが「いやあやっぱり、他所のもんが、ほんなことでおかげを頂きだしたけん、俺達もちっとあわてにゃあ。」ち言うごたるふうになって来るだろうと私は思うです。だからこりゃあ踏んずけられたってね。それをどうとも思いません。けれどもね。
 其の様にまだ合楽を認めては居ないけれども、そんならいわばお道の信心である、中心である処の本部が、合楽の信心を取り上げて来たと云う事なんです。まあ取り上げて検討して見る分けでしょう。検討して「いやあこりゃあどう。」と、また言うかも解かりませんけれどもね。私の初心は変わらない。だからそう云う信心にね。皆さんが共鳴して下さると云う事なんですよ。其処で和賀心学を治めに来にゃあいかん、和賀心を行じる為の、修行をさせて頂かなければいかん。
 先日梅里先生が、あの丁度見えて居られましたときに、佐田さんたち親子が新しいご信者さんがたを、お道引きして見えて居った時きに、「こげな不思議なおかげを頂いた。」と云う話をし御座ざったら、梅里先生がとって抑える様に言われました。「あんただん、もうそのご利益を頂くけん信心するてんなんてん。どぉん無か時に信心せにゃあこて。」と言うてもう実にそりゃあその通りじゃあないか。
 梅里先生が言わっしゃる通りなんです。いわゆる教祖も其処ん処を「痛い痒いが治ったのが有り難いのではない。何時もまめなのが有り難いのであるから、まめな時に本気での信心が出来ればいい。」のだけれどもなかなか人間はそんな訳にはいかん。だから梅里先生はそう云う意味あいに於いての、まあ精神家なんです。ね。其の事を梅里先生が言いよんなさったら私が頂く事がね。「足で拝み、手で拝み、頭で拝んで、心で拝む、全身全霊で拝むのが信心じゃ。」と頂きました。
 そう云う事が解かって居ると云う事だけではね、精神家に過ぎないのですよ。例えばこのキリスト教の場合、此の今素晴らしい言葉が連ねて御座いますけれど、是れは空論なんです。是れが実行出来るはずはないです。そして是れは、おかげには繋がらないでしょうが。人間がご利益に繋がらなくて、どうして人間の幸せが有りますか。そして愛の心とは、愛の心とは、と言うて。愛の心ばっかり言うとったっちやですよ。ね。
 おかげに成らんとです。人間が幸せに成らんとです。ところが和賀心、和賀心と明けても暮れても言うとると、その和賀心には願わんでも頼まんでも、それこそ天が与えに与え抜いて居られるおかげが、キャッチ出来る心が和賀心なのですから。だから本当な姿勢と云うものを、合楽では今年打ち立てて居るのですからです。ね。本当の信心の姿勢を皆さんが、本当にそうだと共鳴して下さって、そしてそれが、合楽の本当の大きな家庭大きな雰囲気が生まれてです。
 それが自分達の家庭の上にもそれをもって帰られて、ね、親子夫婦がです。有り難い事だなと、和賀心のいわゆる勉強をさせて頂くと云う事が、有り難いと話し合えれる雰囲気から、その和賀心に伴うて来る所の、おかげをひっ提げてと言う事は、そのおかげをね、実証していく。教祖様が仰って居られるそのお言葉を、ね、実証して行く所の私達がそう云う責任が有るんだとしてです。ね。
 そこを解からせてもろうて。その為には先程石井信司さんが言ってましたですよね。めぐりの自覚に立つとか、ね、我無力であると言った様な事を解からせて頂く。まあ基本的な、そう云う所、本気で身に付けさせてもらってですね。本当に我無力だなあと本当に、どんなに考えても、心ではこんなに言いながらです。それが出来ないそこに自分の業があり、自分の家のめぐりを感ずると。
 そうだから実を言うたらみ易い事じゃあないのです。さっき信司さんが言うて居った様なものがでてくるんです。和賀心学を治めていくためには。ですからそう云う所を踏んまえて、そして和賀心と云う事のですね。どの様に素晴らしいものであるかを、私共が実証して行く。皆さんが実証して下さる是れにです。私がね。いわゆる世界に声を大きくして、和賀心を叫べる時代が来ると私は思うです。
 其の時こそもうどんどん、合楽の信心が売れる時じゃあ無かろうかと思う。ね。けれども私が例えば和賀心によって、此の様なおかげを頂いたって言うたっちゃですね。そりゃああんたがそれこそ、此の前の大祭の時にある先生が言わしゃったです。表玄関に立ってから言わっやる事が私が送りでたら、「ちょいとほんともう、あんたもやっぱり、ふがよかったのう。」と言わっしゃる。先生が。(笑い)「あぁもう私は本当ふがよかです。」と、言いました。
 まあ「おかげ頂いたのう。」とでも言やあ良かばってん、「あんたもほんと、ふがよかったのう。」と言うちゃった。(笑い)だからねもうそげな事言うかも知れませんもん。けれども私だけならふがよかったかも知れんばってん、そげん皆んなのもんがふがよかったと云う様な事が、有りうえない。是れはそうじゃあない、和賀心によっておかげを受けたんだとね。皆さんが実証して下さらなければね、其れこそ私しの言う事が空論に成るのです。どんな素晴らしい事でも。
 一つそれをです。打って一丸足並みを揃えてです。此の和賀心時代に合楽全体が、突入して行くと云う所にですね。私しは今年の合楽に掛けられる信心があると、私は思います。ですから今度の大祭をね。どんなにして有り難く仕えるか。そりゃあ今までの大祭でしたよ。ね。だからお参りが出来んなら、家で修行でもしてからこうしてそれでやはり、大祭時には、感激くらい湧きますかも知れませんけれどもね。
 それでは世のお役に立ちたいと言う、それには反れるんです。世のお役に立ちたいと言う、そう言う大きな意味においてのですね。世のお役に立ちたいと言う信心を、打ち立てて行きたいと、私は念願してやみません。ね。どうぞ一つ其処ん処を、皆さんが良とされてですね。本気で一つ和賀心に取り組むと。例えばね山田先生が仰った「今まで、頂いて来たおかげと言うのは、なら合楽でおかげを受けて来たと云うのも、あんまり同じ事じゃあ無かろうか。」と、ね。
 所が山田先生の場合は、此処に一つのぴしゃっと、神さまが今年に入ってそうした不祥事が起ったり、信者が減って行ったりすると云う、事実に直面してです。始めてただ、親先生の所から流れて来るおかげだけではいかんと気付いた。もし是れに気付かなかったらどうじゃろうか。山田先生がもう、ね。それこそ私は慢心が出る様な事にすら成り兼ねないと思うんですよ。ね。此処に始めて、思い知らされてですね。こりゃあ本気で合楽の信心を学ばなければいけない。
 そして是からこそがです。合楽の信心を本当によもぎの地に布教しなけばならないと云うふうにです。本当な事に向きを変えられた様にです。私共もそう云う向きを一つ、一堂がですね。そう云う向きにお互い、信心の心を向け直して行きたいと云うふうに思うのです。ね。そう云う心を持っての、ね。またその事が解からせて頂いて、その事が有り難いと言うての、私は今度の四月二十日の大祭で有りたいと思うので御座います。
   どうぞ。